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79年以降の住民投票の動きを概説する
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   更新:2006/12/15
 基調報告:79年以降の住民投票の動きを概説する
【基調報告】
79年以降の住民投票の動きを概説する

◆住民投票条例制定のさきがけ

 わが国で最初に住民投票条例制定を求める直接請求運動が起きたのは東京都の立川市だった。基地の跡地利用に関する市の態度決定に住民の希望を反映させるべきではないかという考えに基づき、1978年の秋に請求代表人らのグループが条例制定を求める署名収集活動を行ない、翌79年初頭に本請求したが、2月1日、市議会において反対多数で否決されている。
 そのあと動きが起きたのは高知県窪川町だった。80年の12月議会において、宮内重延町議が提案者となり「原発設置」に係る住民投票条例案を提案。反対多数で否決されたが、翌年、四国電力の原発誘致に対する動きを理由にリコールされた藤戸進町長が、出直し選挙において「原発立地に関する町の意思は住民投票で決める」と約束し、町長に返り咲いた。こうした経緯を経て、藤戸氏は82年の6月議会に「窪川町原子力発電所設置についての町民投票に関する条例」を提案、これが可決され日本発の住民投票条例が誕生した。
 その13年後の95年に、この窪川町の条例を手本にした住民投票条例が巻町で制定され、翌年、日本発の住民投票が実施されることになる。

◆歴史的な住民投票

 自主管理投票の実施、条例制定(住民投票実現)を公約に掲げての町議選への参戦、町長リコール、出直し町長選挙での圧勝等々、多くの町民の粘り強い運動の末、1996年8月4日、新潟県巻町で(条例に基づく)日本初の住民投票が実施された。
 主権者である町民に問われたのは、東北電力が町内の角海浜および五ヶ浜地内に計画していた原子力発電所の建設に賛成するか否か。賛否両派が熱心なキャンペーン合戦を展開したこともあり投票率は88.29%に達した。結果、投票者の60.85%(有権者総数の53.73%)が反対票を投ずるという明確な民意が示された。
 住民投票を執行した笹口孝明町長はその後、投票実施の際に自身が行なった「反対多数なら町有地を東北電力に売却しない」という約束を履行すべく、原発建設予定地内の町有地を、41人(名義上は23人)の町民に売却。これにより、03年12月、東北電力は巻原発建設計画の撤回を表明した。

◆ 驚異的な実施件数、でも・・・

住民投票条例の可決・否決と実施状況 

 この歴史的な住民投票から10年が経過した。御嵩町(産廃処理施設)、名護市(米軍ヘリ基地)、徳島市(吉野川可動堰)、上尾市(市町村合併)等々、この間、全国各地で364件を超す住民投票が行なわれた(06年7月末現在)。
 これは世界にも類を見ない驚異的な数で、そこだけを見れば、今や住民投票はわが国において市民自治を保障するための重要な手段として広く認知されるようになったといえる。
 ただし、364件のうち348件が市町村合併をテーマとしたもの。これは、「飴と鞭」を内包した合併特例法の失効(05年3月末)が迫るなか、最終的な結論を引き出す手段として住民投票を活用した市町村が03年から05年にかけて急増したことによるもので、このケースの住民投票の増大は05年1月にピークアウトしている。
 かくして、10年前から放置されたままになっている住民投票をめぐる制度の不備が、今また顕になりつつある。それは、立川市を皮切りにかつて北海道や神戸市、人吉市、大洲市、静岡市、沖縄市等々数多くの自治体住民が直面した、どれだけ多数の署名(有権者の過半数という事例もある)を集めて住民投票条例の制定を請求しても、議会の多数派は「間接民主制を否定する」、「衆愚政治になる」と言って実施を拒むことができるという制度のおかしさで、10年経った今もまったく是正されていない。
 こうした議会の多数派による拒否権発動がこの先も蔓延る可能性は高く、現に昨年6月以降、沼津市(鉄道高架化事業)、滋賀県(新幹線駅建設)、吹田市(JR貨物駅の移転)など10自治体で住民投票の実施を求める直接請求が拒まれている。
 もう一つ。日本の場合、投票結果に法的拘束力がないということから生ずる問題がある。名護市、岩国市、徳島市などでは主権者の多数意思が投票結果で示されたにもかかわらず、案件が「国策にかかわる」「国と県の事業だ」という理由で、政府は基地建設や基地機能の移転、可動堰建設を進めようとしている。
 こうした問題は今に始まったことではなく、10年前から存在していた。そして、本日の会議を主催する〈住民投票立法フォーラム〉は、この2つの問題の解決を図るために結成された(99年6月)。フォーラムが考える解決のための「新たな制度導入」の中身については、後ほど詳しく説明するが、その前に、この10年間の住民投票について簡潔に解説しておきたい。

◆テーマによって3つに分けられる


1979年以降の議決件数に占める直接請求、議員提案、首長提案の内訳 及び その可決率 

巻町(96年8月)以降に実施された住民投票364件中、合併関連のテーマが占める割合
(「合併の是非を問う住民投票が実施、開票され、「反対」が多数を占めました。費」の他に「合併特例区長候補の選出」「合併協設置の是非」などを含む)

 住民投票の対象となったテーマによって、第1期から第3期まで分類してみよう。
 96年から99年にかけ、「原発・基地・産廃」のいわゆる迷惑施設に関する住民投票の実施をめざす運動が盛んになり、巻町、御嵩町、名護市など実際に8つの自治体で行なわれた。これが、第1期。(可決日、実施日、否決日など、詳細についてはこの討議資料に収めてある「住民投票をめぐる動き一覧」を参照のこと)
99年から02年にかけては、「ダム建設」「空港建設」「人工島建設」「サッカースタジアム建設」といった大型の公共事業の是非を問う住民投票の実施を求める動きが盛んになるが、この時期、議会が住民投票条例の制定を拒む動きが続き、98年1月から01年4月までの間に、直接請求が39件連続して否決された。その中には、有権者の過半数の署名を収集して請求した小国町(新潟県)や大洲市(愛媛県)も含まれている。これが、第2期。
そして、第3期は「市町村合併」だ。01年7月29日に上尾市(埼玉県)で「さいたま市との合併の是非を問う」住民投票が実施されたのを皮切りに、周辺自治体との合併をテーマとした住民投票が03年以降急増した。その理由は、さきほど述べたとおりだが、実施失態を細かく見ると「首長提案」による可決→実施が最も多く、「直接請求」「議員提案」は共に否決が可決を上回っている(資料 参照のこと)。
住民側からの実施要求の多くは拒まれ、首長主導の実施が数を重ねるというのは好ましいことではない。しかし、だからといって全面否定することもない。というのも、一昔前なら合併するかどうかは、首長、議長や町のボスが(住民の声を聞くこともせず)、自分たちの「損得勘定」で勝手に決めていたはず。それが、とにかく住民投票をやって主権者の多数意思を尊重するという道筋をとったということは、市民自治が前進したのではないだろうか。細かく見れば多少問題のある実施実態がいくつか含まれているとしても、全体としては300を超す自治体が町の将来を左右する重要な案件の決定に関して住民投票を活用したということを前向きにとらえたい。

◆常設型の住民投票条例

 前進といえば、「常設型」住民投票条例を制定する自治体が予想以上の広がりを見せた。愛知県高浜市が2000年12月20日に可決・制定したのが第1号で、森貞述市長が提案したものだ。
 高浜市はその後、条例を改正して、住民投票に参加できる資格を「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げると同時に、永住外国人の投票権を認めるなど、市民の参加資格を大幅に広げた。こうした姿勢は評価に値するが、問題は一定の投票率に達しなければ投票を無効とする「50%ルール」を設定したことだ。その後、高浜市に倣って「常設型」住民投票条例を制定する自治体の大半が、条例案作成の際この条項を機械的にコピーしたと思われる。
 主権者のごく一部の人の参加で重要な決定がなされるのはよくないという理由でこのルールが採用されているわけだが、こうした成立要件の設定は、徳島市や岩国市における住民投票で見られたように、少数派による「ボイコット運動」を生じさせることになる。住民投票は本来ならば、可動堰建設の是非、基地機能移転の是非について、賛否両派が自らの正当性を投票権者に訴え、市民がじっくり議論する絶好の機会となるのに、それが「ボイコットするかしないか」の攻防に転化してしまったのが徳島と岩国だった。
 〈住民投票立法フォーラム〉は投票率にハードルを設ける「50%ルール」ではなく、賛否どちらか多数を制したほうの投票数が有権者総数の3分の1を超えていたら有効とするルールの採用を勧めている。そして、香川県の三野町と我孫子市がこうしたルールを条例に盛り込んだ。
 常設型住民投票条例を制定した自治体の一覧は、資料 を参照のこと。また、我孫子市の条例は巻末に収めてある。

◆抵抗型一辺倒からの脱却。転換点となった2つの住民投票

 さて、第1期、第2期の住民投票は、「迷惑施設」であれダム建設であれ、国の押し付けや民意とねじれていると考えられる議会の決定に対する抵抗の手段としての性格を帯びていた。
 住民投票を実現させるために活動していた人の中には、「巻原発・住民投票を実行する会」のメンバーのように、主権者の意思を確認してそれを政治や行政に反映させたいという思いで署名集めや町長リコールに取り組んでいた人もいる。彼らは、住民投票の実施が決まる前も決まってからも「原発建設反対」とか「反対に投票を」と主張することは一度もなかった。
 だが、たいていの場合、住民投票を実現させるのは、基地なりダムなりを阻止するためにやるのであって、直接請求のための署名集めも反対運動の一環としてやっているという人が各地の運動を担っていた。例えば、名護の「市民投票推進協議会」が住民投票の実施決定後に集会を開いて会の解散を決め、その直後同じメンバーによって「ヘリ基地反対協議会」(住民投票で多数を制するための組織)を結成したことなど、それをよくあらわしている。
 このように、抵抗型一辺倒であった住民投票に新たな風を吹き込んだのが、上尾市の住民投票であった。それまでは、議会否決に遭い実施に至らなかったところも含め、何かに反対するとか、何かを阻止するために仕掛けられてきた住民投票であったのに、上尾では請求代表人の星野理一氏をはじめとする「市町村合併を推進したい」人たちが住民投票の実施を求める直接請求運動を起こしてこれを実現させた(01年7月29日実施)。投票結果は「合併反対票」が多数を制したが、これが「推進側」から仕掛けられ実現した最初の住民投票となった。
 その2ヵ月後には、三重県海山町において中部電力の原発誘致を進めようとしている町長と議員と商工会の幹部が、「誘致の是非」を問う住民投票を仕掛けた。 巻町にしても神戸にしても、首長および議員の多数は、住民の代表者である私たちが決定したのだから住民はこの定を了解しなさい、それが間接民主制ですよと言って事を進める。これに対して「民意とねじれている」と主張する反対派が逆転を狙って住民投票を仕掛けるというのが、それまでのお決まりのパターンだった。
 ところが、海山町では議会の3分の2を握っている塩谷龍生町長が自ら住民投票条例を提案し、共産・社民が反対するなか賛成多数でこれを可決制定した(01年9月21日)。議会に「誘致促進決議」をさせ、それを根拠に中部電力に申し入れるというのが通常の動きだが、推進派がそうした道をとらず、住民投票での決着を選んだのは、巻町や刈羽村、そして近隣の南島町、紀勢町で見られた住民の激しい反発による町政の混乱から学んだ結果だった。「どっちみち住民投票に持ち込まれるのなら、自分たちがイニシアティブをとって実施したほうが有利」、推進派がそう判断したのはまちがいない。
 こうして、01年11月18日に実施された海山町の住民投票は、仕掛けた誘致推進側が敗れるという結果になった。投票結果が明らかになった直後、記者会見に姿を現した塩谷町長は、「(結果を尊重するという条例の規定に基づき)今後、町が原発誘致を要請することはないし、核廃棄物の処理など原発に関係するあらゆることを受け入れない」と明言。同時に「誘致に反対したみなさんは、原発に頼らずにどうやってこの町を活性化するのかについて真剣に考えてほしい」と語った。
 この2つの住民投票からまもなく、市町村合併をテーマとした住民投票が急増することになるのだが、各地に広がりを見せるにつれて、徐々に「合併反対」の人たちのみならず、「合併推進」の人たちも、住民を納得させるための有効な手続きとして積極的に住民投票を活用するようになった。だが、冒頭で述べたように住民投票をめぐる根本的な問題は何ら解決されていないし、そのための具体的なアイデアさえ見出せていない。


『高知新聞』'92.07.20
「原発投票条例が成立」
 

「巻原発・住民投票を実行する会」趣意書

「巻町民へのメッセージ」

88.29%という知らせを聞き大喜びの「実行する会」(筆者撮影)

徳島住民投票のチラシ

徳島住民投票のポスター

川辺川ダム本体建設の賛否を問う住民投票に関する条例制定請求趣意書

米原町長「住民の皆さんへおねがい」

米原住民投票のチラシ

 
 
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