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   更新:2008/04/03
 町長襲撃、住民投票と御嵩町民
田中 保
1996年の町長襲撃事件から11年余り、97年の住民投票からは10年余り。先月26日、岐阜県御嵩(みたけ)町の産廃処理施設問題がようやく終結した。全国的に注目された住民投票であったが、条例制定を求める直接請求代表人を務めた田中保さんは、当時防弾チョッキを身につけ、死を覚悟しながら署名を収集した。「情報室」では、その田中さんがこの12年間を振り返りつつ記した「報告」を一挙掲載します。
町長襲撃、住民投票と御嵩町民

■東洋一の産廃処分場建設問題がやっと終結

  2008年3月26日、岐阜県、御嵩町、寿和工業の3者で会談、建設計画を全て白紙に戻すことが確認され、終結をみた。柳川喜郎町長襲撃事件以来12年近くの歳月が過ぎていた。
  長い歳月が過ぎたので、二十代の若い方にはこの事件や問題がお判りにならない方も多いと思われる。そこで少し経過を簡単に述べることにする。

■町民不在の建設計画

 この御嵩町に産廃処分場建設の計画が始まったのは1990年ごろであった。寿和工業が町外れで不便な十数戸の小さな部落の集団移転を計画し、土地や山を買収し始めた。そして1991年8月に町当局に計画を表明する。当時の町長を始め執行部は不適当な施設であるとして、反対の立場で動いていた。しかし1994年になると岐阜県から強い処分場設置の要請がもたらされて、1995年には、御嵩町執行部及び町議会もやむを得ないとして密かに容認に転ずる。そのことは町民にほとんど明らかにされず、秘密裏に寿和工業との間で15年間に35億円を受け取るという協定までも結んでいたのである。
  そしてその年の4月町長選挙が行われて、前町長の後継者である当時の助役が、全町議や各種団体の推薦を受けて磐石の態勢で立候補、それに対して少数の町民の強い要望を受けてNHK解説委員だった柳川喜郎氏が対立候補として出馬。勝ち目がないと思われたが草の根の運動で大差で当選する。
そしてその年の7月、町議会議員の選挙が行われ、新町長支持派の新議員を11名当選させる。そこから産廃処分場設置問題が明るみに出てくるのである。
  そのころから幼児や小学生の子供を持つ若いお母さん達が、処分場建設反対運動に積極的に動き始める。それにつれて様々な嫌がらせや脅しが始まったのである。9月には議員提案による産業廃棄物処理施設の一時凍結を求める決議が行われ、町長柳川喜郎は岐阜県に対し諸手続の一時凍結の要望書(町民に余りにも知らされていなかった。町民に知って頂き議論する時間が必要である)を提出した。
  その後、岐阜県と御嵩町の間でさまざまな駆け引きが行われたが、岐阜県や寿和工業は必要な施設であると建設の姿勢は変えなかった。
  また、町内では反対運動の会合に参加したり、会場を貸したりすると喫茶店に呼び出され脅されたり、切り落とされたウサギの足を投げ込まれるなどの陰湿な嫌がらせが行われたりしていたのである。
その頃、町長の住むマンションに何者かが盗聴器を仕掛けたのが発覚し、町長支持者は防犯カメラの設置などをして、警戒を強めようとしていた。

■そして町長襲撃事件は起きた!!

 事件が起きたのは1996年10月30日夕方、町長が自宅マンションで2人組の暴漢に待ち伏せされ、野球バットのようなもので滅多打ちにされ瀕死の重傷を負ったのである。そこからこの産廃処分場建設問題は大きく取り上げられて全国的になった。
  それまで前町政時代はこの建設問題に触れることはタブー視されていた。その裏には寿和工業と岐阜県の癒着があって、町行政に大きな圧力となって物言えぬ雰囲気になっていた。
  しかし、この事件をきっかけにして、私たち町民は町長や議会だけに任せては置けないと立ち上がったのである。町民有志の連夜の会合で町の行く末に激論をしながら、11月7日「住民投票条例」制定の直接請求手続きを行った。
  町内では警察の大捜査網が張られ、その上元長崎市長本島等氏を迎えて「暴力追放町民大会」が計画されたため、右翼からの街宣などを警戒して物々しい雰囲気であった。
  そんな中、仲間たちからは何が起きても不思議ではないと直接請求の代表者の私に夜間は防弾チョッキを着用させ行動させられる有様であった。
  当時私は、こんな緊迫感の中での署名活動は何が起きるか判らない、不測の事態が起きる可能性も予測され、大事をとって1000人署名が集まれば終了と、心に決めていたのである。
  そして「暴力追放町民大会」が11月10日に無事終了し、翌々日11月12日から署名活動を始めた。その際署名を求める12人の受任者たちに必ず複数で行動するよう強く求め、夜間の署名集めは避けるよう指示した。
  11月17日に1169名の署名が集まった午後5時に締め切り、翌18日午後に町に提出した。それでも必要な署名303名の4倍近く集まったのである。
  町の選挙管理委員会は重複や町民外の署名などを除き有効署名を1151として12月6日から7日間の縦覧を行った。幸い異議申し立ても無く受理され、12月13日請求者の私に帰ってきた。
  12月18日、私は御嵩町長宛に条例制定の本請求を行った。そして年が変わり1997年1月7日に開会された臨時町議会で審議され、14日午後0時30分12対5で可決され「住民投票条例」は制定されたのである。
  日数的には短かったかも知れないが、当時の私には重い責任感で押しつぶされそうな毎日であった。

■それから投票日までは、権力との戦いであった。

 当時の世相はお上(県や国)に反対するものは悪とされ、泣く子と地頭には逆らえぬ風潮であった。岐阜県の権力者は「住民投票条例」制定を「衆愚政治だ」と牽制したり、投票の結果は法的になんの意味ももたないなどと発言していた。やがて5月に入り、住民投票の投票日が6月22日に決まると、岐阜県は「調整試案」なるものを御嵩町と寿和工業に提示してきて、町内の建設賛成派とともにその説明会を各地で開き始めた。その狙いは「住民投票潰し」であった。私たちは条例で定めている「寿和工業が現在計画されている小和沢地区の産廃処理場建設」に反対か賛成かを問うているのに、事業主体を変えたり、計画地の変更などを盛込んだ別の計画案を持ち込んで、大量の多色刷りのチラシをばらまき、町民の判断をかく乱し始めたのである。町と私たちは強く岐阜県に反発した。
  私たちは岐阜県が処分場建設を前提とした説明会に、県の職員を派遣しての開催は「町民の自治に不当に介入し、混乱をもたらす違法行為」だとして、岐阜県に説明会の費用の賠償と差し止めを求めて監査請求を行い対抗したのである。御嵩町も町長名で説明会の中止を求め、また「日本環境法律家連盟」なども住民投票の干渉で違法であると抗議した。
  これに対して知事や副知事が対応を検討して、6月3日になって岐阜県は今後は住民から要請があっても説明会は開催しないと発表した。
  町民が地方自治法の規定にのっとって行う意思表示に、ここまで権力は介入しようとしたことは呆れるほかはない。
  条例制定までは暴力におびえ、条例制定後には権力に介入される戦いの「住民投票」であった。
  しかし私たちは住民投票の成功の鍵は投票率のUPにあると考え、そのためには何をなすべきかを議論していた。まずは情報の徹底公開、講演会や住民参加の集会などを計画し、新聞折込による情報の提供、そして投票日当日は、投票所が遠い地域には送迎用の車を配置し、自宅から送迎する作戦をたてた。また集会には中学生も参加させ意見発表も行っていたため、老人から若い人まで関心が高くなっていったのである。

■きわめて明確な民意が示される!

 全国のマスコミが詰め掛ける町内で、6月22日、各部落の投票所で投票が行なわれた。前日までの不在者投票も過去最高の1032票で、出足も順調にスタートをしたのである。
  90歳の老女が孫たちに両脇を抱えられて、この投票だけは棄権できないと投票に来てくれたことに私たちは感激した。
  やがて投票は締め切られ、87.5%の投票率と発表され、成功の第一段階はクリアー出来たと喜んだ。開票結果は、反対10373票、反対2442票、無効票203票、不受理(持ち帰り)5票、有権者の69,7%である建設反対の絶対得票率を確保し、投票者の80%の反対だった。
  この民意を岐阜県はどうするのか。少なくとも日本は民主主義国家だ。この民意を踏み潰せるものならやってみろ。それが町民の選択であった。
  さすがにこの結果は明確であり、建設計画はそれから前には進まなくなって、御嵩町と寿和工業の法廷闘争に移っていった。寿和工業もそのうち全ての訴訟を取り下げてしまった。


■3者で建設計画白紙撤回に合意!

 時は流れて岐阜県知事も新しい知事に代り、新知事の斡旋で3者の会合が持たれて解決の模索が始まった。昨年4月御嵩町長も代ったが協議は引き継がれていた。
 
  2008年3月26日、岐阜県、御嵩町、寿和工業の3者で会談、建設計画を全て白紙に戻すことが確認され、終結をみた。その合意事項は岐阜県は寿和工業の開発申請をそのままに放置したことを遺憾とし、御嵩町は寿和工業との協定書を無効とし、そして県に要望していた開発申請の凍結要望書を取り下げる。寿和工業は県に申請していた開発計画を取り下げ、跡地利用を3者で協議することであった。
  襲撃事件以来12年近くの歳月が過ぎていた。しかし町長を襲撃した犯人はいまだ不明である。

■住民投票の功罪!

  住民投票は「衆愚政治」であると主張する学者や政治家たちがいる。当時の岐阜県知事などがそうであった。私たちはそうは思わなかった。住民たちを「衆愚」にするかしないかはたった一つのことがしっかり行われることで避けられると考えていた。
  それは徹底した「情報公開」である。それを行えれば決して「衆愚」にならない。議員といえども普通の人が立候補してなるのである。住民たちとどれほどの能力の差があるというのか。差が出ることは与えられる情報の差でしかない。
  必要な情報を隠すことで曲がった結論を導き出そうとする為政者もいる。そのことは肝に銘じておきたい。
  住民投票を行うことで余り政治に関心のなかった人も変わってくる。一人一人が投票という行為に参加することで結果が生まれ、そして納得出来るのである。つまり政治を身近に引き寄せる役目も果たすと私たちは考えたのである。
  このことは戦後米国に与えられた「おまかせ民主主義」からの脱却であり、地方自治を住民に取り戻す機会になると信じている。
  御嵩町の住民投票は全国で3番目に行われたもので、当時としては珍しいことであった。でも、今では沢山の自治体が市町村合併で「住民投票」を行うとしている。当時から見れば様変わりである。
  しかし決して使い方を間違えてはいけないものでもある。「住民投票」の功罪も考えながら行って欲しいと考えている。でも主権者はいつでもその自治体の住民なのだ。
  ひとたび、その主権者の声が明確に表明されると、覆すことはなかなか出来ない。それを覆すことは再度「住民投票」しか出来ないのではないかと考える。

■やってよかった御嵩の住民投票!

  住民投票という民主主義の手続きは膨大な労力と時間がかかる。それでも私たちは行ってよかったと思う。金と権力と暴力で、この町を支配しようとした勢力から、「民意」という武器を振りかざして頑張り、「東洋一の産廃処理場建設計画」を白紙撤回させたことは、町民の勝利だった思う。このことを御嵩町民は忘れることはないだろう。
  住民一人の力は弱いものだが、心を合わせて集まれば大きな力になることをこの「住民投票」で学んだ。これも大きなこの町の財産でもある。
  不当な干渉や誹謗を受けながら頑張って来た仲間たちの中には、この解決を見ることなくこの世から去った人も少なくない。当時の中学生だった子供たちは今成人して日本の各地で暮らしている。ふるさとの大きな出来事をどう記憶しているのだろうか。それにしても、長かった歳月だった。
  もう12年なのか、まだ12年なのかは、人によって感じ方は違うが、私には本当に長かった。権力や政治が絡むと、ものごとの解決には長い時間がかかる。
  その間に、政治も変わり世の中も変わって行く、そして世代も変わって行く。でもこの町は何処にも行けない。すべて、ここに住む住民の町なのだ。それを守るのも住民なのだ。住民しか守れないのだ。再度言う主権者はいつでも住民なのだ。
 
  私たちの世代もやがて消えて行く。次の世代のみなさん、これからはあなた達が町を造り守るのだ。そして日本を守るのも、新しく造りかえるのも、あなた達である。


{注}本島等氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B3%B6%E7%AD%89


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  住民投票の制度不備が未だ...
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  (武田真一郎 2010/08/06)

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